雨の日の初恋(前編)

 最近の息子は、雨の日を楽しみにしている。

 毎朝欠かさず窓を開いて、雨が降っていると「やった!」とガッツポーズをする。
 さらに、雨の日にかぎって、帰るのが遅くなる。学校が休みのときは、半日も外で過ごしているようだ。決められた門限はちゃんと守ってくれるけど、正直なところ、ギリギリセーフだ。
 息子はまだ、十歳になったばかり。
 外で遊ぶのはいいけど、ちょっと心配だ。いちいち干渉されると嫌がられるかなと、さんざん迷ったけど、思いきって聞いてみよう。

「拓海」

 夕食の席。オムライスをおいしそうに食べている息子……拓海(たくみ)に声をかける。「んー?」と、間延びした返事がかえってきた。

「最近、雨の日になると、はりきって出かけているわよね。どこに行ってるの?」

 すると、拓海は見るからに動揺しはじめた。スプーンをテーブルに置き、しょんぼりとうつむく。

「怒っているわけじゃないのよ。ただお母さん、ちょっと心配なの。言いにくいこと?」

 柔らかな声色で尋ねてみる。拓海はちらりと私を見ながら、こう答えた。

「……友達と会ってるんだ」
「友達? 学校の?」
「ううん、お姉さん。高校生くらいの」

 高校生くらいのお姉さん。それはまた不思議だ。小学生の拓海とは、縁がなさそうなのに。

「美雨子(みうこ)さんって言うんだ。美しい雨に、子供の子って書いて、美雨子」
「へえ。綺麗な名前ね」

 そう言うと、拓海はぱあっと表情を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。まるで、自分自身が褒められたみたいに喜んでいる。
 拓海はずいぶん、"美雨子さん"に懐いているらしい。私は、彼女について詳しく教えてもらうことにした。

 美雨子さんは、近所の駅に、いつも一人でいるらしい。
 駅といっても、十年前に廃止された場所で、めったに人は来ない。
 たまたま通りがかった拓海が声をかけて、ふたりの交流ははじまったそうだ。

「とても寂しそうで、放っておけなかったんだ」

 突然話しかけたので、美雨子さんはびっくりしていたらしい。でも、何度か通ううちに打ち解けて、今ではすっかり仲良しのようだ。

「それで、遅くまで帰ってこないのね」

 やれやれ、と肩をすくめると、拓海はふたたびしょんぼりした。

「ごめんなさい……。でも、美雨子さんと話すのは、すごく楽しいんだ! 優しくて大人っぽいのに、笑うととっても可愛いんだよ。こないだ小テストで満点を取ったら褒めてくれてね、それで、それで……」

 と思ったら、意気揚々と美雨子さんの良いところを話しはじめた。思わず噴きだしてしまう。

「あんた、美雨子さんに惚れちゃったの?」
「えっ……」

 わかりやすく、拓海のほっぺたが真っ赤になった。
 あわあわと口を動かしたあと、うつむいて、こくんとうなずく。

 こんな表情をする息子は、はじめてだ。微笑ましいような、寂しいような、複雑な気分になる。まだまだ子供だと思っていた息子が、恋をする日が来るなんて。
 年の差を考えると、実りがたい想い。心配な気持ちも、まだ消えない。
 でも、もうちょっと見守ってみよう。幼い恋心が、幸せな結果につながることを願って……。



 一度話を聞いてもらえて、安心したのだろう。

 拓海は、毎日のように美雨子さんの話をするようになった。やっぱり、とても楽しそうで……だけど私には、気がかりなことがあった。

 最近、元気がないのだ。
 ひとりでいるとき、思いつめたような表情をしている。本人は明るく振る舞っているつもりらしいけど……お見通しだった。だてに十年も、母親をしていない。

 いわゆる、"恋わずらい"かな。
 だとしたら、見守るだけじゃだめだ。何か力になってあげないと……そう思っていた矢先だった。

 買い物帰り。後ろから、「ちょっと」と声をかけられる。
 振り返ると、ご近所に住んでいる奥さんが、けげんそうな顔で私に近寄ってくる。

「拓海くん、あの駅に毎日通っているそうじゃない」

 早口でまくしたてる奥さん。
 なんでこの人がそれを知っているのだろう? と疑問に思うと、すぐに「最近よく見かけるって、ご近所でうわさになっているのよ?」なんて、ため息をつかれてしまった。

「あそこに行かせるの、やめさせた方がいいわよ」
「……どうしてですか?」

 つい眉根を寄せながら尋ねると、奥さんは声のトーンを落とした。

「あそこはね、"出る"のよ」
「え……」

 あっけにとられる私に、奥さんは「本当よ」と念を押してくる。

「雨の日だけに出る、女の人の幽霊。目撃情報もあるくらいなのに、あなた知らなかったの?」

 大事な情報を教えてくれているはずなのに、ムッとした。
 実を言うと、私はこの奥さんがあまり好きじゃない。人の家庭事情に色々お節介を焼きたがるうえに口が軽いのだ。一度聴いた話は、今みたいにどんどん周りに言いふらしてしまう。
 私は元々、人とのなれ合いが好きな方じゃない。ご近所づきあいは最低限に済ませているので、幽霊のうわさも今頃知ったのだろう。

 遠い目をする私に、奥さんはもどかしそうだった。はあ、と大げさにため息をついたあと、厳しい目で私を見つめる。

「とにかく、拓海くんを止めた方がいいわよ。何かあってからじゃ、遅いんですからね」

 ……ああ、この奥さんは苦手だけど。
 息子が当事者となると、放っておくわけにもいかない。美雨子さんが本当に幽霊で、拓海に危害を加えるかもしれない……なんて、想像したくなかった。


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